見える?」考
ラインの監視』にはアメリカ人、ドイツ人、ルーマニア人、フランス生まれのアメリカ人などが登場します。

さて、我々はそのような西洋の人物を演じるわけです、しかも日本語で。それぞれのお国の違いもさることながら、そもそも私たちは西洋人に見えるのでしょうか?否。絶対に見えません。

新劇の世界では昔の一時期、ノーズ・パテ(付け鼻)で鼻を高くしたり、男性でもハイヒールを履いて足を長く見せたり、メーキャップも厚塗りで彫りを深くして何とか西洋人に似せようとしていました。先人達の涙ぐましい努力に頭の下がる思いです。また仕草においても、手のひらを両方とも上向きに高く上げ、両肩をチョイと上にあげる動作(例:I don’t know.の時など)などを頻繁に使っていたそうです。これなどは役者が相当はまっていないと、観ている方が気恥ずかしくなるような気がしますが、これも何とか西洋の雰囲気を醸し出したいという熱意の表れだったのでしょう。

そして今はどうか?今時の演劇界の風潮は翻訳物を演じる場合、衣装などは勿論それらしい雰囲気のものを着ますが、身体的な西洋人への模倣は余り重要視されなくなってきているようです。その分、佇まいがナチュラルになってきたような気がします。外見的に不自然な人物描写は、却って演劇環境に違和感を覚えさせてしまうという考えでしょう。私も同意見です。

つまり翻訳劇の要諦は、西洋人の外見的模倣(見える?見えない?)ではなく、素材(戯曲)を西洋に借りた普遍的な人間対人間のドラマを演ずるということなのでしょう。チョイと正論っぽくなってきましたが、どの国の戯曲であれいいものはいい。人間という面白くて、悲しくて,可愛くて、時々不可解な存在を的確に深く表現するのがいい演劇なのではないでしょうか。おーっと、益々紋切り型の正論っぽくなってきたぞ。恥ずかしいからもうやめます。

さて『ラインの監視』はどうか?いい戯曲です。天地がひっくり返っても絶対西洋人に見えない私はというと、「見えるとか見えぬとか、そのようなことは知ったことではない」(『ハムレット』第一幕第二場)という台詞に後押しされて、戯曲の中の西洋人を演じています。<人間>が表現できればいいですな、たとえ外人離れした体躯の私でも!さあ!今日も稽古、稽古!


ところで、私は何をしているようにみえます?

金尾さん

金尾さん2

「俺はどういう風に見えるのかなあ・・・?
ストレッチしても足が長くなるわけじゃないしなあ・・・、腹筋しても鼻が高くなったり、小顔になったりするわけじゃないしなあ・・・」

と思いつつ、ストレッチと腹筋を5秒間づつする図でした。


テック役 金尾哲夫

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